株式会社レックス

コルティナダンペッツォ

2022.08.19

2026年の冬季オリンピックがどこで行われるかご存知だろうか。ミラノ・コルティナダンペッツォである。イタリア北部の主要都市ミラノと、アルプス山脈の一部ドロミティの麓にあるコルティナダンペッツォの二か所で開催される。このニュースを聞いて、「またか……」という失望の感覚に襲われた。オリンピックの話ではない、カタカナの話だ。

まず、アクセントをより正確に反映させると、ミラーノであり、コルティーナダンペッツォである。アクセントのニュアンスは、カタカナではおおむね調音記号、いわゆる横棒「―」で処理されるが、これを入れる入れない、つまりミラノか、ミラーノかは、かなり適当に決められている気がする。女性スキャンダルで名を馳せた元首相ベルルスコーニも、現在はBerlusconiのoにアクセントがあることを考慮してベルルスコーニと表記するのが一般化しているが、彼がメディア王だった1980年代には、ベルルスコニと表記されることもあった。

そもそもカタカナでは諸外国語の発音を忠実に再現することは困難だし、原語に近いカタカナ表記にこだわるあまりに、むしろ読みにくくなってしまう例もたくさんある。水の都ベネチアは、原語の発音に近いのはヴェネツィアだ。さらにアクセントも考慮するとヴェネーツィアとするのが正しいだろう。だがベネチアとヴェネーツィアでは読みやすさ、わかりやすさの観点からは、前者が圧倒的に上ではないだろうか。まとめると、カタカナにおいては、そもそも外国語の表記にぶれがあり、それを解消するために原語の発音に正確に従うなどのルールを設けると、今度は日本語として読みにくくなってしまう。このジレンマを解消するのは難しいから、下手なこだわりは捨てて、読みやすさを重視してカタカナを使うべきである。自分のなかでそう納得させている。

それよりも、最初のオリンピック開催地の話に戻すと、コルティーナダンペッツォの「ダンペッツォ」の部分に納得がいかない。これはイタリア語ではd’Ampezzoと表記され、di Ampezzoが母音省略された形だ。di AmpezzoのiとAのように、連続する二語において一語目の語尾と二語目の語頭がどちらも母音の場合、アポストロフィーでつないでd’Ampezzoの形にする。発音も本来の「ディ・アンペッツォ」ではなく「ダンペッツォ」と、さも一語であるかのようにまとめられてしまう。この場合のカタカナ表記は、かなり重罪を犯していると思う。なぜならCortina d’Ampezzoが母音省略される前に存在していたdiには、助詞「の」の意味合いがあるからだ。本来の意味は「アンペッツォ(という山地)のコルティーナ」なのだ。Cortina d’Ampezzoをコルティナダンペッツォとすることで、正しい発音ができないばかりか、原語の意味まで失われている。

もう一つ例を出すとSant’Agataだ。中部都市ボローニャほかイタリアの多数の地域に存在する地名で、もともとは紀元三世紀に実在した聖人の名前だ。これもまた、本来はSanta Agataで、「聖なるアガタ」という意味だが、母音省略によってSant’Agataとなり「サンタガタ」と表記されると、「サンタ」の形容詞も「アガタ」という固有名詞も、両方が損なわれてしまう。カタカナ表記では、こういった事例が後を絶たない。

20世紀を代表する言語学者ロマーン・ヤーコブソンは、「隣接性の異常」という概念で、失語症の解説を試みている。例えばthanksgiving(感謝祭)という語の意味は理解できるのに、thanksとgivingに分解されると、それぞれの意味が理解できないという事例だ。それでいくと、コルティナダンペッツォとサンタガタからもわかるように、カタカナには、一つの単語を、それを構成する一語一語に分解して理解することを不可能にする機能があるように思われる。つまりヤーコブソンが指摘する失語症を、単語レベルで量産する装置ではないか。

思わず話が飛躍してしまったが、とりあえず2026年の冬季オリンピックは、「アンペッツォのコルティーナ」で行われるということを、どうか覚えていただきたい。