株式会社レックス

ミッロの壁画を求めて

2023.11.01

「ストリートアートが好きなの。だって、風、日光、雨、何もかもにさらされて、人間みたいに年齢を重ねるから」

 日本未公開のイタリア映画『バングラ』の名シーンだ。イタリアに住むバングラデシュ人二世のファイム・ブイヤンが監督と主演を務めた2019年のコメディーで、当時24歳だったファイムは、この作品で国内映画賞の新人監督賞を獲得した。そのあらすじは、ローマの移民居住区として知られるトル・ピニャッターラに住むバングラデシュ人の青年ファイムが、イタリア人の女の子アージアに恋をするというもの。イスラム教の厳格な家庭で育ったファイムと、イタリア人の開放的な家庭で育ったアージアは、感覚のギャップに戸惑いながらも、距離を縮めていく。物語の後半、夜の駐車場でビルの壁一面に描かれたストリートアートを二人きりで眺めながらアージアが口にするのが冒頭のセリフだ。

 ストリートアートというのは、壁に描かれる落書きのことだ。ざっくり分類すると、ロゴマークやアーティスト名を描く巨大文字タイプと、イラストや絵画風タイプの二種類がある。また、別の角度から見ると、合法的に描かれたものと、電車の車両や公共スペースに描かれたイリーガルなものの二種類にも分類できる。

『バングラ』の舞台トル・ピニャッターラという地区は、そもそもイリーガルなストリートアートが多数あったのだが、2000年代から行政の支援のもと、巨大なイラスト風ストリートアートが合法的に描かれる「ストリートアートの町」として知られるようになった。

『バングラ』の名シーンで使われたのは、男の子の膝に女の子が座っている姿がビルの壁面全体に描かれた、巨大でコミカルなイラスト風ストリートアートだった。今年の1月、ちょうどトル・ピニャッターラに滞在していたので、このストリートアートをさがしてやろうと町内を歩き回ったのだが一向に見つからない。これはどういうことかと思い、ネットで調べてみた。捜索中の作品を描いたアーティストの名前はミッロで、本名はフランチェスコ・カミッロ・ジョルジーノという。1979年、イタリアの南端プーリア州で生まれ、中部の主要都市ペスカーラで建築を学ぶも、ストリートアートに傾倒していった。そしてなんと『バングラ』のストリートアートは、ローマではなく、トスカーナ州ピストイアにあるという。映画の重要シーンのために、わざわざローマにないストリートアートを用いるとは、監督のファイムもミッロにだいぶ惚れ込んでいたのだろう。

 これをきっかけに私のミッロ熱に火がついた。今年の9月にイタリアを再訪した際、北イタリアのトリノに行った。調べてみると、トリノのバリエーラ・ディ・ミラノという地区で地域再興のために2014年にストリートアートが公募され、そのアーティストにミッロが選ばれた。かくして同地区には13ものミッロの作品があるらしい。これはぜひ実際に鑑賞してみたい。

 ところがこの考えが甘かった。グーグルマップが示す方角へふらふらと迷い込んだバリエーラ・ディ・ミラノは、かなり治安のよろしくない地区だったのだ。まずはバス通り沿いにある作品を見に行く。写真に収めてから改めて周りを見回してみると、イタリア人が一人もいなくなっていた。アフリカ系移民の多い地区らしい。気にせず横道に入って次なる作品を目指し歩いていると、前方のほうで奇声を発している男性がいる。気にせずその男の横を通ろうとしたところで、彼にこう声をかけられた。

「タバコを一本くれないか」

 私が「持っていない」と答えると、矢継ぎ早に「10ユーロ貸してくれ」。手には、脅迫用の武器なのか六角レンチを持っている。これもまた「持っていない」と答えると胸ぐらをつかまれそうになったので、猛ダッシュで男のそばを離れた。遠くから男の笑い声が聞こえる。「冗談だから戻ってこいよ」。なんとか大きい広場までたどり着いたが、ここも果たして安全なのか。結局だいぶ迂回して、比較的安全そうな大通りにあるミッロの作品を三つほど鑑賞して、私はバリエーラ・ディ・ミラノ散策を終えた。

 なんたる不覚。ローマ留学時代に似たような地区に住んでいたこともあり、危機管理能力はしっかり身についていると思っていたが、周りに気を配らずにグーグルマップに頼りすぎたのがよくなかった。皆さんもイタリアでストリートアート鑑賞に出かける際は十分に気を付けていただきたい。

 それにしても、ストリートアートというのはなんと魅力的なのだろう。トル・ピニャッターラやバリエーラ・ディ・ミラノにこういった作品が描かれるのは、地区の再開発や再整備の意味合いが少なからずあるはずなのに、まったく効果が発揮されておらず、地区の治安は悪いままだ。そして、そんなことはどこ吹く風で、地区の景観を陣取る巨大ストリートアートからは、特有の図太さが感じられる。『バングラ』のアージアと同じく、私はその人間みたいなバイタリティがたまらなく好きなのだ。まだ見ることのできていないミッロの作品も残っているので、バリエーラ・ディ・ミラノにはぜひ再訪してみたい。十分に気を付けながら。

二宮大輔(翻訳家・通訳案内士)

2012年ローマ第三大学文学部を卒業。観光ガイドの傍ら、翻訳、映画評論などに従事。訳書にガブリエッラ・ポーリ+ジョルジョ・カルカーニョ『プリモ・レーヴィ 失われた声の残響』(水声社)、クラウディオ・マグリス『ミクロコスミ』(共和国)など。