会社沿革の流儀
2021.06.19
日本企業の広報に関する翻訳案件をいただくと、その企業のいわゆる「会社沿革(company history)」を目にする機会が多くある。実際のところ、公式サイトであれ、統合報告書などの印刷物であれ、会社沿革の類いがまったく記載されていない広報資料はほとんどないと言ってもよいだろう。
日本企業の会社沿革は、日本語版であれ英語版であれ、年表を模したシンプルなものが多いのだが、英語版をよく見てみると、スタイルにばらつきがある点に気がつく。
例えば、下記の企業は、各文言を体言止めの形式でシンプルにまとめており、英語が不得手の読者でも読みやすい(下記画像が荒くて見にくいのだが、冒頭は1920 Sales launch of Asahi microscope.となっている)。
一方、同じく体言止めで統一をはかっているが、情報量が多い結果、やや不自然な表記に見える場合もある。例えば下記は、コンマ前までの部分を副詞句として捉えると、ぱっと見、全体として少し違和感が残る。
日本語の文章にも言えることだが、情報量が多い場合は、文章形式の方が分かりやすい。下記がその好例であろう。統一という観点からか、情報量が少ない場合も、多い場合と同じく、すべて文章形式で表記されている。
ここで重要なのが時制である。会社沿革は、その企業の過去の出来事を列挙するものであるから、過去形で記述するのが当然と思われるかもしれないが、原則はそうではない。下記のとおり、スイスにルーツをもつグローバル企業の沿革は、やや長めの文章であるにも関わらず、すべて現在形で表記されている。
文法的な用語を使えば、ここには「歴史的現在」という時制が成立していると言える。「歴史的現在」とは「ヨーロッパ語で、過去に起きた事象を現在の時制で表す表現法」(広辞苑)であり、とりわけ物語や小説—主に書き言葉—において、その場の臨場感を表す場合などに使用される。欧米系の企業は、この用法にのっとり、会社沿革を現在形で表記するのが一般的なのである。
これに対し、日本企業の会社沿革の英文はと言うと、現在形で統一されている企業もあるが、過去形で統一されているケース、はたまた過去形と現在形が入り混じっているケースがしばしば見受けられる(今回調査した16社のうち、現在形を使用していたのは9社、それ以外が7社)。
現在形で表記されている例
過去形で表記されている例
過去形と現在形が混在している例
注意すべきは、年表を念頭に簡潔な表記を望んだ結果、文章形式であっても、動詞の一部が省略されるケースである。例えば「●●社創業」として、会社沿革の冒頭に置かれることの多い下記の表現を見てみよう。
●● Co., Ltd. established
この英文はbe動詞を省略している。省略せずに表記すれば is established か was established のいずれかであり、前者であれば、過去形のように見えたとしても、「歴史的現在」の用法にのっとった現在形の表現ということになる。
実際のところ、is established か was established かは、この部分からだけでは判断できないのだが、年表のそれ以外の英文を見ることで、「歴史的現在」にのっとった表記かどうかが推測される。
以上、日本企業の会社沿革英語版を、表記という観点から見てきた。内容という観点からすれば、日本企業の会社沿革は、欧米企業のそれと比べた時、事実を羅列する年表的なものが多いように思われる。数字と固有名詞を盛り込んだ、シンプルな内容のものが主流に見えるのである。
一方、欧米で評価される会社沿革は、ストーリー仕立ての「読ませる」ものが中心という印象を受けた。年表的な情報も存在はするが、会社沿革 company history ではなく、タイムライン timeline としてまとめられていることが多い。どちらが正しいというわけではないが、場合によっては、日本企業の会社沿革も、今後は欧米系企業のそれに近接していくのかもしれない。