神の手が触れた日
2023.07.05
「映画を鑑賞するなら、字幕か吹き替えのどちらがいいか」という議論がある。字幕派の主張は、言葉がわからなくても声色や台詞の言い回しで、少しでも制作者の意図がダイレクトに伝わるから、字幕を追いながら原語のセリフを聞くのがベストということらしい。私の少ない字幕翻訳経験から言わせてもらうと、それは少し違う。字幕によって削られてしまう情報はあまりにも多い。一般的な字幕のルールでは、字幕は1枚1行13字、2行までと決まっている。それ以上長いと目で追うのがしんどくなる。つまり1枚最大26字に抑えなければならず、それ以上の情報はカットされる。だがら、原語のセリフにカタカナの固有名詞が出てきた場合や、登場人物が早口でしゃべる場合など、字幕に入り切らない情報は、残念ながらとても多い。決して制作者の意図が十分に汲み取れるわけではないのだ。イタリア語では、「翻訳(tradurre)は裏切り(tradire)」などと言われたりするが、原語の情報をばさばさカットしていく字幕こそが、翻訳界隈で最大の裏切りかもしれない。
だが、だからこそ訳者の腕が試されるわけで、字幕から情報があふれ出る早口のコメディなどでは、一字幕ごとに、様々な創意工夫が凝らされている。それを意識して観ると、映画がまた違った視点で見ごたえのあるものになる。
ただ、これも語学学習者の悪癖なのだが、原語を理解していると「これはちょっとよくないな……」とつっこみを入れたくなる字幕翻訳も多々ある。最近ではNetflixの日本語字幕がその対象になることが多い。特に、カタカナ名の表記ミスが多い。例えば本来「ジョアキーノ」と発音するGioachinoを、字幕では「ジアキーノ」と表記したり。イタリア語を学習している人なら誰でも気づくイージーなミスだ。おそらくはイタリア語に詳しくない人間が字幕翻訳を担当しているのでなはないか、つまり英語からの重訳ではないかと思われてならない。全てが全てそうではないだろうし、コンテンツ数で勝負の配信プラットフォームとなると、字幕制作費も安くて締め切りもタイトなはずだから、この程度のミスは大目に見たい。
パオロ・ソレンティーノ (出典元:https://it.wikipedia.org/wiki/Paolo_Sorrentino#/media/File:Paolo_Sorrentino_2018.jpg)
ところが先日パオロ・ソレンティーノ監督『Hand of God -神の手が触れた日-』という映画をNetflixで観ていて、これはいただけないという字幕翻訳があった。ソレンティーノは、2013年にアカデミー賞外国語映画賞も受賞した、今イタリアでいちばん脂ののっている監督だ。そんな彼の自伝的要素を含んだ『Hand of God -神の手が触れた日-』では、生まれ故郷のナポリで、風変わりな親や親戚たちと過ごすファビエット少年の成長過程が描かれる。物語の中盤で主人公の少年ファビエットは別荘に滞在していた両親を一酸化中毒でなくし、絶望しながらも自らを奮い立たせ、映画監督になる決意をして、ローマに向けて旅発つ。
当時ナポリに在籍していた人気サッカー選手ディエゴ・マラドーナが、ボールを手に当ててゴールしたが、審判から反則をとられなかったというエピソードから、「神の手ゴール」なる言葉が生まれた。ファビエットはマラドーナが出場するサッカーの試合を観戦するために、両親といっしょに行くはずだった別荘にはいかず、ナポリに留まった。マラドーナの「神の手」が、ファビエットの命を救ってくれたことから『Hand of God -神の手が触れた日-』というタイトルがついた。
作品自体は素晴らしいのだが、物語中でもっとも重要なセリフの字幕が気になった。両親をなくして悲しみに暮れるファビエットは、尊敬する映画監督アントニオ・カプアーノと出会う。ファビエットは彼に、現実に嫌気がさしたから映画で空想の世界をつくりたいと相談する。映画を撮るには痛みが必要だと主張するカプアーノは、ローマに行って映画を撮りたがるファビエットを、「それは逃げだ」と強い口調で叱責する。カプアーノにまくし立てられたファビエットは、亡くなった両親に面会できなかった悲しみを告白する。するとカプアーノは一転して静かな口調で助言する。
Non ti disunire, Fabio.
これに「壊れるな ファビオ」という字幕があてられている。Disunirsiという再帰動詞の否定の命令文だ。辞書を引くと「分離する」という意味だ。それを否定形にすると「分離するな」。会話の流れを汲むと「映画を撮るのに必要な痛みを知っている今の自分を分離させるな」「痛みを忘れるな」という意味だとわかる。これが「壊れるな」だと「自暴自棄になるな」とミスリードしそうになる。また、この後にファビエットが「どういう意味?」と聞き返すことからも、よく意味の通らない言葉を使って訳すべきだ。
では代替案は? と問われると、これがなかなかに難しい。つっこみを入れるのは楽なものだ。どんな代替案を持ってきても、何かしら批判はされそうだし、絶対的な正解はない。だからこそ字幕翻訳に着目することは面白いし、作品を深く理解する大きなヒントになる。
二宮大輔(翻訳家・通訳案内士)