株式会社レックス

言語は男性優位主義?

2022.07.18

先月の日経新聞のコラムで、池澤春奈さんが言語における性別について書かれていた。ラテン語由来の言語には名詞に性別があり、定冠詞も形容詞も名詞に合わせて形が変わるという話だ。スペイン語を例にとって、本はlibroで男性名詞。クジラはbellenaで女性名詞。「一冊の美しい本」という場合、Un hermoso libroとなり、「一頭の美しいクジラ」ならUna hermosa ballenaとなる。いずれも三つの単語の連なりのうち、一つ目が「一つの」(Un /Una)を意味する冠詞、二つ目が「美しい」(hermoso/hermosa)を意味する形容詞だ。それらが三つ目の名詞(libro/ballena)の性別によって、形を変えている。

さらにややこしいのは集団になった場合だと池澤さんは続ける。複数の女友達に呼びかける場合は女性名詞の複数形でamigasを使うのだが、もしその集団に一人でも男性がいたら男性名詞複数形でamigosになってしまう。どれだけ女性がいても男性一人混ざっていれば男性名詞になる。それゆえ、スペイン語は圧倒的に男性が優位でマッチョな言語であると、池澤さんは(あくまで冗談っぽく)指摘している。

このルールは、多くのラテン語由来の言語もそうだが、私が生業としているイタリア語でもまったく同じだ。もっと言うなら、名詞の性別によって形が変わる形容詞はすべて、辞書を開いてみると、必ず男性形で掲載されている。さらに、イタリア語でいうと、他言語のように中性名詞や中性的な表現も存在しない。きっぱり男性か女性か分けられた上で男性が優位に立っている。ということは、イタリア語こそが言語のなかのキング・オブ・マッチョなのではないか。

語学を始めた頃は単語を覚えるのに必死でいちいち考え込んでいなかったが、この名詞の性という概念に、そもそも納得がいっていない。例えば父親はpadreで男性名詞、母親はmadreで女性名詞というふうに、物理的な性別で男性、女性と区分できる場合はよしとしよう。ところが自然界のあらゆる事象を男性、女性で分けるとなると、かなりその判断基準が怪しくなってくる。太陽soleは男性、月lunaは女性……。日本語の感覚で特に解せないのは、海mareが男性であること。海という漢字を分解すると「母がいる」と『お~い!竜馬』で学んだのに。

そしてキング・オブ・マッチョの観点から指摘したいのが、動物の名詞だ。例えば猫を意味するgattoは男性名詞で、雄猫であることを示すと同時に、一般的な猫の総称として使用される。語尾を-aに変えて、雌猫を意味するgattaも使用できるが、ある特定の事情で雌であることを示す以外は、雄猫gattoが猫を意味する呼称としてまかり通っている。犬caneや馬cavalloや狼lupoも、すべて男性名詞で、いずれも雄猫方式を取っている。または、雄牛toro、雌牛muccaのように、雄雌でまったく形が異なる場合もたまにある。

このようなイタリア語における男性優位主義はどこから来ているのかと突き詰めると、イタリア語の基礎となったラテン語ということになるだろう。なんと、これだけマッチョな振る舞いをしておいて、挙句の果てに先輩のラテン語に責任転嫁するとは!

冗談はさておき、納得がいかない名詞の性の概念だが、実はというと私はそんなに嫌いじゃない。名詞に性が付加されることで、そこに大いなる意味が与えられている気がするからだ。先ほど例に出した狼lupoだが、ローマを建国した捨て子のロムスとレムルスは、雌狼に育てられたという伝説が残っていて、捨て子を育てた狼は女性名詞でlupaと呼ぶ。一般的な狼を意味する男性名詞lupoではなく、lupaと呼ぶところに、この物語の奥深さを感じずにはいられない。

池澤さんのコラムによると、近年、スペイン語やドイツ語で性中立的な表現が広まりをみせているそうだ。男性優位主義を解消する方向に向かいつつも、lupaの伝説のような、名詞に性があるからこそ可能な表現も感じ取っていきたい。

 

二宮大輔(翻訳家・通訳案内士)
2012年ローマ第三大学文学部を卒業。観光ガイドの傍ら、翻訳、映画評論などに従事。訳書にガブリエッラ・ポーリ+ジョルジョ・カルカーニョ『プリモ・レーヴィ 失われた声の残響』(水声社)、クラウディオ・マグリス『ミクロコスミ』(共和国)など。